前回の道場では、「公」と「私」を単純な二項対立の図式で理解すべきではないことを述べた。
「私」の現場から立ち上がったのではない、「公」の領域に関わる言説や行動は空虚であり、空虚であるが故に必ず倨傲な逸脱に陥るし、「公」と接点を持たず、「公」への志向性を持たない「私」は貧しく、孤立的であるが故に必ず歪にネジ曲がってしまうからだ。
「私」に根を持たず、「私」を媒介しない「公」的言動として、ある種の運動主義を連想する人がいるかも知れない。
だが、その典型例は連合赤軍ではあるまいか。
彼らにとって、革命の大義という「公」的命題の前には、化粧という「私」的要素の混入一つが、十分殺害の理由となり得たのだった。
逆に「公」から背を向け、それとの繋がりを失って奇形化した「私」の典型例は、サティアンに閉じ籠ったオウムの一般信者ではないか。
あの不気味で無意味なヘッドギアは、その表徴のようにも思える。
「私」と「公」は相互に媒介し合い、支え合うべきで、両者を分断させてはならない。
その上でこそ、「一旦緩急」あった場合の身の振り方も、見定められるはずだ。